居合とは、常に居て、急に合わすの意味である。居は、からだの居るところ、心のあるところで、坐臥歩一歩みな居合である。


居合は、いついかなる場所でも、八方に心を配ってゆだんなく、急に応じ、変にのぞんで、機の働きをすることを言うのである。

居合は刀の操方であって、古くから武道の一つとして、わが国民の間に親しまれていた。

いわば、祖先伝来の遺産であり、われわれが誇りうる国技である。

言葉を替えて言えば、神器日本刀を操作し、寒暑に耐え忍んで修練の結果、堅忍不抜の心身がつちかわれてきたのである。

われわれの祖先は、大和魂につらぬかれて、事にあたり、日常生活をいとなんでいたのである。

今日の武道が、体育と精神の健全を求めているとすれば、居合こそ、その最高位に位置つけられるものと確信する。


居合道の歴史

 居合は室町時代末期の永禄の頃、奥州林崎(山形県村山市・日本で唯一社の居合神社がある)の人、 林崎甚助源重信によって創始され、その有為性から武芸一般に広く取り入れられる所となり、 以来400余年の時を経て今に伝わる剣技である。

 居合とは、剣道の立会いに対する、所謂、居合の意で、座居、立居、歩行中、如何なる時と場合に於いても、 刀法と身体の運用を極めて練磨し、不意の襲撃に際し、直ちに之に応じ、先又は後の先の一瞬の鞘離れの一刀を以て、 電光石化、敵を制する刀法である。

 然し、古来「剣の道は人を殺す事を目的とするに非ず、人を活かすものでなければならない」とされ、 その刀法と身体の運用を練磨すると共に「鞘の中」の精神を修養することが第一義であるとされ、 究極は人格の養成であり、和の追求であると教えられている。

 それが現代社会に於いても、なお居合道の魅力であり、居合道を通して心の練磨をし、集中力を高め、 日常生活の如何なる場合にも心の平静を失うことなく、内観を究明して、冷静に第三者の眼で判断し、 的確に物事を対処する事により、明るい現実を生み、生甲斐のある生活をする事に惹かれ、修業に励む者の絶えぬ理由で ある。

 最近、あらゆるスポーツに古武道の動きが重視されて取り入れられており、転瞬の間に生死を左右する動きは、身体の動きを極限まで効率よく、 無理なく、然も強力な力を働かせている事は驚くべきものがあり、古人の智慧の深さには心から改めて敬意を表するものである。

 伝統古武道を通して姿勢や呼吸を正し、礼儀や忍耐力、健康と健全な精神力を身につけ、本来の日本人の良さを取り戻す為に、 厳しい稽古を通じてのみ得られる、奥深い楽しさを是非共味わって頂きたいと願うものである。

居合道の精神と目的

 古来「居合の至極とは、常に鞘の中に勝を含み、刀を抜かずして天地万物と和するにあり」と言われ、 正しい刀法と身体の運用を修練し、「形より心に入り、技によりて心を養う」道であると教えられている。

 人と争って勝つ事よりも、技と心の修業による人間としての道徳観念を身につけ、戦わずして人を制し、絶対の勝利、 和を極める事を究極の目的とするものであり、厳しい武道の修業の中から「武士道」という観念を育み、礼儀正しい、 質実剛健な日本人としての精神風土を醸成して来たのである。

 現代の居合道も「正速強威」という「居合道の本義」に従い、心身を練磨し、 優れた人間形成を目指す事こそ居合道修業の第一の目的としている。

剣道の理念

 ・剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である。

 

・剣道修練の心構え

剣道を正しく真剣に学び、心身を練磨して 旺盛なる気力を養い剣道の特性を通じて 礼節をとうとび信義を重んじ 誠を尽くして常に自己の修練につとめ、以って国家社会を愛して 広く人類の平和、繁栄に寄与せんとするものである。

何故「居合道」なのか

居合道とは刀を抜いて「仮想敵を斬る」武道です。

もちろん無暗やたらに刀を振り廻す訳では無く、伝承された形を行う訳ですが本来「生きるか死ぬか」の瀬戸際に立った武道ですから 「前の敵を見つつ周囲に気を配る事」(視野を広く取る事)が要求され、 これを長期に修行するといつの間にか「正しい姿勢」が身につく事になるのです。

しかもあくまで「仮想敵」ですから、実際の相手は存在しませんので、不注意以外全く怪我をする要因はありませんし、 自分の体力に合った「最大の運動量」が得られ健康を保持し続ける事になるのです。

 加えて最大の長所は「高年齢から始めても充分成し得る」と明言出来、実際に始められた例は数多くあります。

日本武道の中でもっとも「能」や「仕舞い」に近く「間の芸術」と呼べるにふさわしい武道なのです。

事実70才・80才の高齢者が年輪の「味」を加え、迫真の居合いを抜かれる様子は、はるかに年齢を超越したものを感じます。





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